「楠堂」メモリアルマンホール設置について  岐阜県出身で金融業、大理石業、育英事業の三業を成し遂げられた 故矢橋亮吉氏が明治三十七年に岐阜市八ツ寺町一丁目の住宅を購入し、 書生薫陶の道場としての「楠堂」がこの地に始まりました。  昭和二年矢橋氏の援助で岐阜簡易図書館分室が開設された後、 岐阜市がその一部を譲り受け、昭和三十三年に岐阜市立図書館設立の場として 活用され、平成二十七年に「みんなの森ぎふマディアコスモス」に移転するまで 長く市民の教育文化の拠点になりました。  一方、戦後の日本経済復興に高まる電話需要へ対応するため旧電気通信省が 矢橋家からその土地の一部を譲り受け、昭和三十年の電話局開局以降、 情報通信を支える基板となっています。  「楠堂」を象徴するクスノキは道路整備を機に電話局側の土地に 属することとなりましたが、「楠堂」の元書生の皆様からの要請に応える 形で樹は保存され、岐阜市は昭和四十七年度保存樹として指定し、 現在西日本電信電話株式会社が保護に務めています。  この地の発展のために力を尽くされた先人の歴史が、教育文化を 支える知の拠点と産業や生活を支える情報通信の拠点となった縁を 後世に伝えていくことを目的に、ここに「楠堂」とクスノキをモチーフとした メモリアルマンホールを設置しました。  平成二十八年 四月   西日本電信電話株式会社 岐阜支店